平成16年(2004年)9月4日土曜日 熊本日日新聞文化面

久永 強さんを悼む         
命を削り描いたシベリアシリーズ
坂本善三美術館長
坂本 寧
 8月28日よる、台風の近づく中で久永強さんは波乱に富んだ86年の生涯を終えた。後年、抑留生活を描いた絵画「シベリアシリーズ」で知られるようになる彼は、義務教育を終えると中国・大連に渡って時計職人になった。音楽家の夢も捨てきれず、海岸で発生練習をし、夜はギターをひいていた。その多才さはカメラにも向かった。
 しかし戦争は、彼の安穏な生活を奪った。当時の満州で戦車兵として服務中に終戦となり、シベリアに抑留の身となる。過酷な労働の中、数多くの戦友を亡くす。厳冬の地を掘り、翌日はわが身と思いながら埋葬したという。しかしそんな中でも彼は、手製の楽器で楽団を作り、ついには芝居で女優までやり、各ラーゲリ(強制収容所)を訪問して回った。またソ連軍将校の時計を修理して報酬のパンや菓子を受け取ると、病に伏せる戦友のために分け与えたという。 九死に一生を得て、彼は日本に帰り着く。
 熊本市でカメラ修理店を開業した彼とは、偶然出会ってから四十数年の交流だ。60歳になったとき、久永さんは突然私に「絵を習いたい」と言い出す。彼のロマンチックで幻想的な発想は数々の秀作を生んだ。ある日、意を決して、私の師・坂本善三さんに作品を見てもらった。先生は「久永強は熊本の秘密兵器」と言って励ました。
 それから久永さんと私の二人三脚が始まった。1992年のある日、彼は突然正座して、「先生お願いがあります」という。なんですかと聞くと「シベリアが描きたい。その抑留生活を描いておかないと、しんだときシベリアで死んでいった戦友に合わせる顔がないのです」と言う。その眼には鋭さと悲しみがあった。
彼は2年間、1日も休むことなくシベリアを描きつづけた。それは死んでいった戦友への鎮魂の詩であり、生きて帰った己への罰でもあったと思う。命を削って制作を続ける彼の後ろ姿を見て、彼の健康への不安とともに、その壮絶さに戦慄を覚えた。
 94年8月、終戦記念日を挟んで熊日画廊で彼は、シベリアシリーズ全作品44点を展示した。初日、すでに肺炎を起こしていた彼は1日会場にいただけで、入院するはめになった。反響はすごかったが、医師の1人として彼を病に追いこんだのが悔やまれてならなかった。この作品群が東京の画廊主・益田祐作さんの眼に止まり、東京で発表されると大反響を呼ぶ。そして世田谷美術館に43点が収蔵され、福音館書店で画集が出版され、97年、県文化懇話会賞を受賞する。
 しかし、こんな中でも彼は有頂天ではいなかった。病床で、ただ寧先生のおかげです、と礼を述べるだけだった。戦友の死を題材にしての発表であり、ただその記録が彼の目的であったから―。いつも人のために、自分はその余りでよいという彼の遠慮深さがまぶしかった。
 音楽の才を見抜いてスパルタ教育を施した、愛娘であり愛弟子でもあるバイオリニストの鶴和美さん、そして生涯愛した妻・淑子さんを傍らに、家族に看取られながら彼は生涯を閉じた。ひそやかで幸せな幕引きだったと思う。